誘いインド5日間の旅
後半へ進む
初めてのインド、「なぜインド?」とみんなに聞かれましたが、行ってよかった。
インドは今回行った北部インドでも5月6月が乾季で気温50度にもなるそうです。
8月は雨季で最高34度、最低気温27度と、関西と同じぐらい。
関西空港から香港経由で約10時間
デリー⇒ジャイプール⇒アグラ⇒デリー
インド北部のゴールデン三角地帯といわれているコースです。
16時間の出発遅れ
しかし今回は関空発2時の予定が到着便遅れのために夜中の12時発に変更されました。
夜中に出発時間が変更されたために、関空から、大阪のハイアットリージェンシーで待機ということで、バスで南港まで戻り、
そこで、午後九時まで部屋で仮眠、8時ごろに添乗員が、また出発が翌朝6時半に延期されたということでこの旅行をキャンセルにしたいと言ってきました。
私は頭がボーっとしていたし、もう帰ってもいいやと思うくらい疲れていましたが、利が「俺は行く。ほかにも休暇とって来てる人がいるはずだから一方的なキャンセルはよくない、みんなを集めて賛否をとるべきだ。」といったので全員ロビーに集まって行くか行かないかを決めることになりました。
メンバーはOLらしき二人、一人旅の女性、家族連れが二組、年配の夫婦が一組全部で14名です。
年配のご夫婦は即キャンセル、といっても私たちと同じぐらいですが。
若い人たちはきっぱりと「行きます。」家族連れは相談後行くことに決定、結局二人キャンセルしたのみで無事出発の途に。
朝3時にホテルを出発、6時半に飛行機に乗り、日本時間4時半、インド時間1時にデリー到着。
しかし16時間遅れたことで、デリーの観光と宿泊はカットされることに。
回ったのは下の地図の赤い印です
近そうなんですが、これが意外と遠い。各都市間移動距離は200〜300キロ。トイレ休憩を含めて約6時間
デリー経由ムンバイ(ボンベイ)行き
デリー空港
人がいません。
デリーから一路ジャイプールへ
デリー1時半発、お詫びの印にと、12人で50人乗りの大型バス。
インドの道路は悪いので後ろに乗ると大変なことになるのです。ゆったり座れて、旅の疲れを取りました。
隣の州に入る際、商業用トラック、観光用バスなどは税金を払う。
運転手はシーク教徒のブルーのターバンを巻いた髭の豊かな立派なおじさん。
シーク教は16世紀にパンジャブ人ナーナクが開いたヒンドゥー教徒イスラム教の統合を目指して成立したそうです。
ヒンドゥー教と同様に輪廻からの解脱を最終目標とするが、超越的な唯一神を崇拝し、偶像崇拝やカースト制を否定しすべての人間は神の前で平等である。
清廉潔白、勤勉、差別撤廃などをモットーにし、頭髪や髪を切らない。タバコをすわない。信徒数は全人口の2%、60%がパンジャブ地方に住んでいるそうです。
これは途中のトイレ休憩のモテルです。トイレ管理のおばさんに5ルピー約15円。
この後とんでもないことが!!
すごい勢いで走っていると、片側2車線の道路の向こうから逆走してくる車が・・・・。
ガイドさんの話では「この先で車の事故か何かで通れないようだ」というまもなく運転手はUターンし、すごい勢いで戻り、次の交差点で反対側の登り車線に入っていくではありませんか。反対側では当然前方から車が走ってきます。インドは物流が盛んなんだなと感心するほどすごい数のトラックがいっぱいいっぱい走っていた道ですよ。それもかまわず次から次へととなりの車道からトラック、バスなどが後ろに続いてくるのです。2車線のところが3車線になり、前から来る車と後ろから来る車で身動きが取れなくなっているのに、それでも小さい車は大きい車の間を縫って、わずかな隙間に入り込み団子状態になってきました。
日本ならこんな状態は考えられない。このまま夜中になるのかと絶望的な気分でいたところ、警察が来たらしく、少しずつ動き始めました。
ガイドさんがようやく戻ってきました。私が指示を出したからうまく動きました。と意気揚々です。まあそういってもおかしくないほど立派で、頭のいいガイドさんでしたが。
先ほど車がエンコして通れなくなっているその先が空いたものだから
そちらにも反対車線からの車がびっしり入り込んでいて、まず、その車を通してから、こちら側の車を通しなんとか事なきを得ました。結局ロスは一時間で済みました。
しかし、様子を見ているとこんなことは日常茶飯事のようですね。瞬時に判断した運転手のやり方は、結果として、あのままそこで処理を待っているより、早かったということです。
ジャイプールへ向かう窓からの壮大な夕焼け
本来ならもう着いているはずのこの時間、ジャイプールまでまだ1時間半かかる地点です。
もっときれいだったんだけど。
夜9時ジャイプール到着
ラージビラース ジャイプール(ここは欧米系ホテル)で初めての夕食
ここは食事だけ、滞在中はすべてビュッフェスタイルでした。
テラスからの風景
ライトアップされた庭園と建物は真っ白で夢のように美しく、まるでお姫様になったような気分。
ホテル周辺の雑踏とのあまりのギャップに気が遠くなりそうでした。
写っているのは利です。
そしていよいよ今夜泊まる予定のマハラジャの宮殿ホテル、ランバーグパレスに到着。
運良くオーバーブッキングで、このホテルに泊まれただけでも、苦労した甲斐があったわ。
。
ロビー
8人のギャルソン(というのがぴったりの)男性と、美女が出迎える。
花輪とビンディ(額につける赤い粉)のサービス
白い枠の中にか水が貯めてあり、その周りの器にはろうそくがともっている
これはホテルを囲む回廊右下はプールです。
お部屋はスイート
真っ白な壁、隅々まで美しい。
部屋のエントランス
寝室
ダイニング
ワイン、フルーツ、チョコレート、がセッティング
どの調度もすばらしい。
浴室
左手にシャワールーム、右手に浴槽。浴槽にはゆっくり漬かれるように、布製の背当てがついている。
しかしすべてキングサイズで鏡に顔が映りません。w
シャワー後のガウンと、寝室には就寝用のガウンが。
一階で庭に面しているので広いバルコニー。
早朝の風がさわやかです。
庭を散策
5時半に起きて朝の散歩
庭園の整備はすばらしい。
孔雀やリスが遊んでいました。
左の一階に見える張り出した広いテラスが今回泊まったお部屋です。
何の花かな。 こちらはバイキングの朝食
エントランス レストラン内
ロビーで
☆ここで小休止
デリーからジャイプールまでの道すがらみたインドは予想を超えていました。
人口の60%は農民で、農村地帯の風景はとても穏やかで緑が美しく広大な平野に牛や山羊や猿がのんびり暮らしているように見えます。
しかし、首都デリーの中心部でも感じられましたが、特に周辺部から農村地帯に至るまでの間おびただしい人々が、大人から子供まで小さな種々雑多な店を営み、荷物を運び、テント生活をし、道路を歩いています。そして道路沿いの小さな町でも同様です。
高速道路とは言っても、道の両側には店が立ち並び、牛やロバの荷馬車がその縁を歩いています。
インドにはいまも義務教育がないそうです。地域による経済格差ではなくカーストによる経済格差でしょう。
カースト制度は紀元前からで、それはインドに深く根付いているわけですし、一方で、職業の確保というメリットもあるようですから、一概にいい、わるいはいえませんが、現代では国全体の発展という目で見れば非常に効率の悪い制度だというのは明らかです。
こういう大変な荷物を背負いつつ進んでいくインド。
一人一人がその範囲の中で生きようとするものすごいバイタリティーに圧倒されます。
このエネルギーを中国よりすごく感じたのは、インドの国民性かな。
道路ではきらびやかに飾りつけた物流トラックが気力満載で引きもきらず走っています。
インド経済の発展を感じさせる光景ですが、
路上生活者の様子と、上記の欧米人が多いラージビラースジャイプールホテルとマハラジャのすばらしい宮殿ホテル、
このあまりの格差は私にとってすんなり受け入れるのには少し難しいものがありました。
中国の内陸部でも似たような風景をあちこちで見ましたが、やはりカーストという制度がないだけ救いがあるように思えました。
インドの歴史について漠然とした知識しかなかったのでちょっと調べてみました。
簡単にインドの歴史について。
●インダス文明とアーリア人の進出(BC2300年〜BC600年ごろ)
インダス文明はインダス川周辺に栄えた都市文明でパキスタンに残るハラッパー、モヘンジョ・ダロが有名だが、インダス文明衰退後
中央アジアからアーリア人がインド北西部に進出した。
アーリア人は多神教を信仰し、この頃バラモン教やカースト制度や輪廻思想の原型が始まった。
インドの2大叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマーヤーナ」(王族の活躍を描いている)
●古代王朝の出現(BC600年〜AD300年ごろ)
王国数16、マガダ国が強大になる。
仏教、ジャイナ教の思想が生まれる。
ガンダーラ美術、仏像崇拝
●グプタ朝と古典文化の黄金時代(AD300年〜AD1200ねんごろ)
チャンドラグプタ一世のグプタ朝成立
サンスクリット語が公用語になる、
現在古典とされる宗教や哲学の文献が次々に発表される。
仏教に圧倒されていたバラモン教が復興、土着の信仰と融合してヒンドゥー教が浸透した。
大量の金銀が鋳造されゼロを用いた計算法が発見されるなど商業や諸科学も発展した。
アジャンタやエローラの石窟もこの当時作られた。
このグプタ朝に完成した社会制度や文化がその後のインド文化の規範となった。
この王朝が衰退した後、インドは混乱期を迎え、イスラムとヨーロッパの侵攻にさらされる。
●イスラム王朝の成立とヨーロッパ勢力の進出(1200年〜1900年ごろ)
当初イスラムの侵攻は略奪が目的だったが、次第に勢力を強め、1206年インド初のイスラム王朝(奴隷王朝)が成立、
その後、強大なムガール帝国が出現する。3代皇帝のアクバルが北インドを統一、アグラのタージマハールは最盛期の5代皇帝シャージャハーンが作った。 ムガール帝国は6代目のアウラングゼーブの死後衰退。
ムガール帝国の成立と前後して、ヨーロッパ勢がインド進出を開始していたが、最終的にポルトガル、オランダ、フランスを圧倒したイギリスがボンベイ(現ムンバイ)、カルカッタ(現コルカタ)、マドラス(現チェンナイ)を要塞化し、植民地支配を確立し、そこを拠点に、綿布、硝石、藍を欧州へ輸出して莫大な利益を得た。ムガール帝国の衰退に伴い、イギリスの高圧的な施策への不満が高まり、インド大反乱(セポイの乱)が勃発イギリスはこれを武力で鎮圧ムガール皇帝を廃し、軍事的要素の強い巨大化した東インド会社を解散させ、イギリスの直接統治を開始した。
このあたりについては映画「インドへの道」「ガンジー」などでイメージはありますが。
●分離・独立と新しいインド
19世紀後半から、都市部の知識人を中心にインドの民族解放運動が徐々に始まってきた。ガンジーが登場すると反英運動はさらに激化した。そして第2次世界大戦後イギリスはインドの独立を認めた。しかし宗教的対立やカシミールの領有問題などが原因で、イスラム教徒の多い北西部とベンガル東部はパキスタンとして分離独立した。さらに1971年ベンガル東部はバングラデシュとして独立。独立後のインドは長い植民地支配で弱体化していたため、赤字財政を解消するため外国の援助に頼り社会主義型国家を目指して工業化を進めることになった。1990年代に一転してさまざまな規制を解除し経済自由化政策を本格化させようとしている。
(ワールドガイドブックより、一部抜粋)
ガイドさんに聞いたのですが、いまインドの人口は10億4000万人。
カースト制度についても話してくれました。大まかな解説ですが、インドの人の口からじかに聞けたのはよかったと思います。
うちの学校の学生には、なかなか聞きにくいし、若いですから。
ガイドさんの話では今カーストの区別なく貧しくて教育を受けたい人には大学まで無料で行け、また生活費、食費すべて援助があるということです。でもカースト間での結婚は禁止。
日本の江戸時代に作られた身分制度のようなもので、インドのこれからの課題だといっていました。
詳しく知りたい人はウィキペデイアでカースト制度を読んで下さい。
小田実の「何でも見てやろう」今でも鮮明に覚えていますが、あの中の「不可蝕賎民(アンタッチャブル)」というのはアチュート
と呼ばれており、カーストの下にある階層で、「力がなくヒンドゥー教の庇護のもとに生きざるを得ない人々である。」という位置づけで、この階層の人が現在一億人存在するといわれているそうです。
今回私たちが回ったのは北インドムガール帝国の遺産というわけです。
それを今回来てから気がついたというのはちと恥ずかしいかも。
さて、予備知識を持って、いざ観光に
ジャイプールはデリーの南西260kmラージャスターン州の州都
約10kmの赤い城壁に囲まれているのでピンクシティとも言う。
ハワー・マハル(風の宮殿)修理中で入れなかったが、1799年に作られた。奥行きはないが5階建て張り出したバルコニーと152ある窓。
王妃や後宮の女性たちが夫以外の人に顔を見られることなくジャイプールの景色を眺めるために作られた。暑い日には涼しい風を吹き込ませる工夫がされている。
ほかの宮殿でも同様に涼しく過ごす工夫が随所にあって驚かされる。
ハワー・マハル (風の宮殿) その反対側にある交差点
アンベール城へ
ジャイプールの中心から北へ13キロ
途中で見かけたマハラジャの夏の宮殿、
今は雨季なので宮殿全体が湖に浮かんでいます。
川の向こうにアンベール城が見える。
ここでバスからジープに乗り換えてアンベール城内へ
ジープから見たアメールの村
落ち着いた雰囲気の美しい町です。
ここでジープを降りる
ジャイプールに遷都される(18世紀初頭)前まではここが州都だった。
ここの壮大な風景は必見です。
ちょっと小さくて見えにくいですが下を歩いているのは象のタクシー
この旅行社では以前事故が起こって添乗員と客が3名亡くなったので象には乗らないことにしたそうです。象はジープとは違う道を歩いています。
そばで見るとかなり座席の位置が高いので、むべなるかなですね。
ここアンベール城は城砦なので、かなり堅固なつくりです。
宮殿の中へ
観光客でない彼女にカメラを向けるのは気が引けました.が、
顔を覆っていたので失礼して。素敵な色合いです。
イスラムらしい彫刻
城砦の周りには万里の長城のような長い塀がめぐらされています。
壁の中は空洞で水が流れるようになっている。なんと言う贅沢!!
王妃や側室の涼を取る部屋 。
精緻な意匠を施した天井、壁
左は大理石の彫刻、周りの文様には宝石をすりつぶした塗料が埋められている。
どの部屋も水が壁面内を流れるようになっており、涼に対する工夫がされている。
今は水は流れていないが、中は驚く程よく風がとおり涼しい。
王城から望む防壁
ジャイプールシティーパレス
市内にあるマハラジャの城、現在も一部居住中
博物館が併設され、マハラジャの衣服、絵画、写真、乗り物、織物、武器、武具なども含めさまざまな生活用品が展示。またマハラジャがイギリスに言ったときにガンジス川の水を運んだという巨大銀製の水瓶(6点あったそうです)もあり、往時のマハラジャの栄華がしのべます。
すごい!!
マハラジャの位置づけは、皇帝に服属する領主です。
そしてお約束のショッピング、インド更紗の工程見学、宝石類の加工工場見学
昼食はインドレストランで、バイキング、各種カレーが食べられて満足。
そして午後一時にはアグラへ向かって出発、舗装はしてあるけれども、道路はがたがた、
トイレ休憩を含めて6時間の行程
アグラへ向かう道、のどかな農村地帯
遠くに世界遺産ファティプールシクリを望む
ジャイプールからアグラに向かって東へ200km、
ここはアクバル帝の夢の城
ファティプールシクリ、勝利の町という意味
これは16世紀の後半にムガール帝国三代皇帝アクバルによって造られました
しかし水の確保が難しく、たった約10年間だけのムガール帝国の首都でした。
今は廃墟のような趣ですが、その雰囲気がとても魅力的です。
赤い建造物、赤い塀、赤い床、赤い彫刻が
補色の緑の芝生に映えて、それは美しい。
赤砂岩で作られ、すべてが赤い世界、
壮大な夕日に更に赤く映えて幻想的な眺めでした。
夕景の農村地帯を更にアグラへ
アグラへ向かう途中から鉄道と平行に走ることになった。この鉄道はベナレス行き
ベナレスに遠く思いをはせながら乗っていると、交差する踏切が・・・。
ここは上り下りの二車線なのに、踏み切りの遮断機が下りると、
あいている下り車線にのぼりの車、荷馬車、人が詰め掛け、次々と遮断機をくぐって、踏切を渡っていくではありませんか。
さすがに自動車はくぐりませんが、踏み切りの向こう側も当然同じ状態です。
しばら〜〜くしてから列車がゆっくり通過しました。
かなり長い連結です。遮断機が上がると、線路の両側に車がひしめき合っているという状態です。
でも、何の問題もないように粛々と車は踏み切りを渡り始めます。
互いにマジックのように対向車をかわしながら、するすると進んでいきます。
ジャイプール行きの渋滞といい、この踏切の待ち方といい、驚くしかありません。
夜はタージグループのホテル。
昨夜とは比べられませんが、なかなか雰囲気のいい落ち着いたシティーホテルです。
ここでも夕食はバイキング。味はとてもよかったです。
インドの水は硬水なので、サラダなど水を使ったものは食べないように、
果物も切ったものは水で洗ってあるのでだめ、
皮のついたものなら大丈夫ということで、
ランブータンなどをおいしく頂きました。
いよいよ今日はタージマハールです。
朝6時におきて7時半出発。
市内なのでバスで20分ぐらい。近くてうれしい。
最近タージマハルが大気汚染で損傷を受けているらしい。
排ガス以外に酸性雨で大理石溶け出すという被害が報告されているそうです。
それで、タージから一キロぐらいのところでバスから電気自動車に乗り換えてタージマハルまで。
では入り口からご一緒にタージマハールをめぐりましょう。
タージマハールの入り口
チケットを渡して、いざ中へ。
インドの犬はほとんどがこの種類です。
中国で見た食用犬にそっくり、ガイドさんに聞くとインドでは犬は食べないとのこと。
この犬の祖先はどこ出身なのかしら。
広い敷地です
緑豊かで庭園の整備はよく出来ています。さすがタージマハルですね。
前を行くのは、同じツアーの家族連れのパパと息子さん
美しい庭園
いよいよあのゲートからタージマハルが・・・。
化粧直しの最中です。周りの花柄は、宝石を象嵌。
ここからの眺めは素敵
このタージマハルはムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、ペルシャやアラブ、
果てはヨーロッパから2万人もの職人を集め、22年の歳月をかけて建造させたといわれているインド=イスラーム文化の代表的建築。
愛妃ムムターズ・マハルの死(1630年)を悼んで建てたお墓です。
后は結婚している19年の間に11人の子供をもうけ最後の娘が生まれたときになくなったといいます。
シャージャハーンは戦場でもどこでも愛する妻を伴ったということですから、
妻を亡くした悲しみがこの建物に凝縮していると考えると、感慨深いものがあります。
それほど美しく透明感のあるすばらしい建造物です。
背景には何もありません。
後ろは川でこの背景を邪魔するものは建てられないことになっているそうです。
また四隅の塔は地震があっても建物と反対方向に倒れる構造になっており、
中央の建物は守られています。
本来はその川の反対側にシャージャハーンの墓が黒大理石で全く同じ形に作られることになっていて、
二つの建物を大理石の橋がつなぐという構想だったそうです。
しかし、シャージャハーンはあまりの膨大な出費に息子の一人に川下のアグラ城に幽閉され、
そこから妻の墓を眺めながら、泣き暮らすという晩年をすごしたそうです。
しかし、19年で11人とは・・・。
本物の美しさは驚くばかり。
背景が青空だったらよかったんですが。
利です。
近づくにつれ大理石の透明感が・・
この下で靴を脱いで上がります。私たちは靴カバーを配布されました。
廟から反対側を見ると、タージマハルゲートが・・。
床の赤い色は磨きこまれた赤砂岩、大理石とのコントラストが実にきれいです。
台の上はすべて白大理石、冷たいです。
花の模様は宝石が象嵌されています。イスラム文字は黒大理石で象嵌しています。
お墓の入り口です。
中は撮影禁止、失意のうちになくなったシャージャハーンの棺と、
后の棺が並んで納められています。
大理石の彫刻がきれいです。
宝石の薄切りが象嵌
色合いがとてもいいですね。
タージマハルの裏側です。川と農村地帯。
建物がほとんど見当たりません。
タージの両側にタージを守るように立っているモスク、タージマハルの白さに影が薄くなっていますが、
この建物もすばらしい建築様式です。
タージマハルに最後の一瞥を。
結婚35年の私たちには素敵な思い出になりました。
次に向かったのはアグラ城
正面向こうに見えるのはタージマハルです。
ここは第三代皇帝アクバル(インドのほとんどを征服)の建てた宮殿。
第五代皇帝シャージャハーンはここのバルコニーでひがな妻を思い出し、
向こうに見えるあの場所を妻の墓所にすることを決めたそうです。
会議室、暑いインドでは会議室がオープンエアー
よく手入れがされています
庭に作られた噴水
彫刻が面白い。
ここはアグラのシェラトンホテル、贅沢な水の使い方。ここも別世界です。
昼食はここで。
後はもうデリーへ行って飛行機の時間を待つだけ、
と思って気が緩み、昼食を思いっきり食べてしまいました。
特にデザートがおいしくて・・・。
これが災いして、デリーに近づいた辺りから、
胃が痛み始め、後は急激に体調が悪くなり、吐き下し。
バスの中からパチリ。
デリー大学、ガイドさんはここで日本語を専攻したそうです。
遺跡のような建物ですね。
デリ−へ行く途中の休憩所で見たバッタとハエ
デリーの世界遺産クトゥプミナール
デリー観光はないものと諦めていた私たちですが、ガイドさんと運転手の彼が頑張ってくれたおかげで、一つだけ見ることが出来ました。閉園十分前です。
私はトイレにダッシュしたのですが、どこも閉園前でしまっていたところを、
またもやガイドさんの機転のお蔭でひとつのトイレを確保。何とか事なきを得ました。
その後、夕食(中華料理)も食べずにバスで横になりつつ、夜23時30分デリー発の飛行機を待つ羽目に。
あまりのひどい症状に一時はインドの病院で吐き止めを貰おうかと思いましたが、
それも怖いので何とか日本へ帰ってからと覚悟を決め、飛行機に乗りました。
別に細菌感染したわけではなく、
とても疲れていて、何かが終わってほっとしたときに年一回ぐらいの頻度で起こしている持病のようなものなので、治し方は唯一病院で点滴なのです。
添乗員がとなりが空いている席を確保してくれ、日本につくまで何も食べず10時間ずっと横になってしのぎました。
終わりよければすべてよしになるはずだったのですが。真ん中よければまあまあよし、という結果に終わってしまいました。ww
かえってすぐに病院へ行き点滴をして、後3日はおかゆで過ごしました。
下のは今回の旅行日程です。利用旅行社はJTBです。スムーズに行っていれば、いいコースだと思います。
旅行日程 |
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